広告効果測定の闇 Measuring Ad Effectiveness in Darkness

広告、とりわけオンライン広告の世界には、明るく力強く、「デジタルの時代になって広告効果が測れるようになったんです」と言う人がたくさんいる。彼らの多くは迷いも疑いもない。曰く「だって、広告をクリックして買い物かごに入れたと言うことは、その広告を見たと言うことと買ったと言うことが繋がっているから、広告効果があったとわかるじゃないっすか。」

だが、Tech Crunchが報じた、Twitter、Facebook、Googleの広告担当幹部のディスカッションを見る限り、広告効果が測れると言い切るには、よほどの度胸が必要だとわかる。テクノロジーの申し子のような彼らも、悪戦苦闘を続けているのである。

広告効果とは何か。そして、それをどう測ればいいか。

論理的には、前者の質問に実務上意味のある明確な定義が与えられ、そのための実行可能な測定方法が提示できれば、一件落着である。だが、これに答えようとすると、専門書一冊ができあがる。そしてなお、上記のディスカッションでGoogleのNeal Mohan(ディスプレイ担当VP)は、「効果の測定はデジタルブランド広告に立ちはだかる最大の障碍である」と述べている。

記事の表題からして、clickの価値について激論、とある。つまりは、clickという行為あるいは測定単位が、広告効果測定に占める位置についてまだコンセンサスが得られていない、ということに他ならない。

このディスカッションでも概ね合意されていることは、広告効果とはresult、すなわち商品・サービスの売上に対して、広告したことがどの程度影響をもたらしたのか、ということである。いくつのクリックが生起されたか、などは広告主の最も知りたいことではない。広告費をどれだけかけたら、どれだけ売上に効果があったのか教えてくれ、なのである。だから、clickは目的変数ではなく、媒介変数または説明変数としてどう扱われるべきか、がディスカッションの対象になるわけだ。

Facebookは、clickは重要ではない、という立場をとる。Click数と売上との間に連関がない、というのがその論拠。オンラインで広告する商品の多くは、オフラインでも買える。だから、オンラインで広告をしたことが、オンラインとオフラインの両方でどれだけの売上につながったかを測る(推計する)ことが大事になってくる。そのために、Facebookは広告を見た人がどれだけ買ったか、をPOSデータなどを使って精緻に推計することに長けたDagital Logixを買収した。かれらにとって、最も重要な指標はImpressionである。(もっともオンライン部分のキャンペーン効果測定にも手を抜くわけではなく、彼らはAtlasに投資することを決めている。) 彼らのアプローチを一言で言うと、売りに繋がる最も重要な要素についてのみ着目し、その間のものはブラックボックスとして扱うというものだ。すごく乱暴に思えるが、実際にはかなり有効ではないかと僕は見ている。

これに対して、Googleは最終的なConversionを重視する。広告によってオンラインでどれだけの売上に繋がったかに対してきっちりと答えを出せば良いという立場。ただ、最終のconversionに繋がる複数の経路を考慮に入れ、それぞれの経路のそれぞれの段階で細かくコントロールが効くようにしている(Multi-Channel Funnels)。Conversionに直接かかわるlast clickは、測定単位として重要になる。彼らのアプローチは、はっきりしている部分、測定できる部分については、できるだけ追っていこうというもの。オンラインの経路が何にも増して重要な商品なら、このアプローチは意味があるだろう。

Twitterは広告サービスの招待制を廃止し、セルフサービスの広告プラットフォームを一般に公開した(本日時点で米国のみ)。まだ、広告の規模も小さく、広告ビジネスはこれからだが、彼らが目指しているものは、Tweetという一つのフォーマットを核としてよりRichな広告コンテンツをシェアすることによって、Engagementを高める方向に集中すること。彼らにとっての広告効果測定とは、最終売上やコンバージョンよりもむしろEngagementを測ることに重きが置かれることになる。

ここで見逃せないのは、ディスカッションの裏側に、彼ら自身がどのように収益を上げていくかという課題が広告効果測定のあり方に関わっていることである。それは、広告効果を測る、ということの定義自体も操作的に行えるものであることを意味する。

実は売上やconversionという目的変数に関しても、本来操作的に定義しないとおさまらない。たとえば、キャンペーン終了後10日以内なのか、3ヵ月以内なのか、1年以内なのかを決めないと測定終了できないのである。操作的に決めなくて済む場合というのは、広告効果がいつまで続いたかがわかっている場合であるが、効果の程度を知るための測定をしようとしているのに、いつまで続くかは予め決めることは明らかな矛盾である。

広告露出は、オンラインで完結しないものも多い。さらに、広告以外の要因も売上に何らかの正負の影響を及ぼす。気温が上がればビールは売れるし、鳥インフルエンザが流行れば鶏肉の売上は落ちるだろう。つまり、広告効果を測ることは、広告以外の効果を測ることでもある。そして、それらは複雑に絡み合う。流通経路、評判、棚の位置、PR、ニュース、イベント、プロモーション、景気、季節性等など。

個人個人の置かれた状況によっても、広告の効き方はさまざまである。給料日、万馬券を当てた、酒を飲んだ、彼女にねだられた、子供の頃に食卓に出た、ショーウィンドウで見た、店員にすすめられた、引っ越した、商品を見てカワイイと思った等など。

クリック一つ、売上数字一つをとっても、統制不能な要因が山のようにある。広告をしなかった場合、した場合、の二つで比較できればいいが、広告以外の条件を同等になるように設定するのは簡単なことではない。そして広告それ自体も、過去の蓄積効果がどの程度残っているかがわからないと、正確なキャンペーン評価をしたとはいえない。

結局のところ、測定の方法や過程を複雑にしても、さまざまな要素をコントロールできない以上、何が測れたのかは、わからないまま残る。同時に、マーケティングの目的が最終的には売上であるにしても、そこで投じられる広告が必ずしも売上やサブスクリプションにつなげようとしているものか、当事者以外にはわからない場合もよくある。例えばこのGoogleのコマーシャル。何をもって広告効果が上がったと言えるのか。(すなわち目的は何か)。そのために投じた金額はどのくらいか。など、外部からは当て推量するしかない。

広告効果とは何か。そしてそれをどう測ればいいか。

それは永遠に未解決のまま残されるはずだ。しかし、それに迫ろうとさまざまなアプローチは、間断なく続くだろう。ある銘柄のXか月後の株価を知ろうと、常になにがしかの予測が求められるように。

————–

(追記)元記事に書かれたディスカッションについての、日本のプロフェッショナルの見解を知りたいと思う。

蛇足だが、Tech Crunchの記事の中にある「閉じ込もって考えるのをやめる」とあるのは、「(広告キャンペーンを)個別の経路で考えるのはやめる」というほうがより正確。モバイルやPCなど、はたまたオフラインとオンラインなど個別に予算をつけてコントロールすべきでない、ということを指しているはずだ。

カテゴリー: Advertising, MarCom | タグ: , , , , , | コメントをどうぞ

Gunosyのおもしろさ

学部学生の頃からの知り合いであるGunosy CEOの福島君スーパークリエータの認定を受けた。めでたい。

これを機に、一ユーザーとしてこのサービスについてコメントしておこうと思う。 Gunosyは、毎日(設定により一日一回)、その人が関心を持つであろうニュースをいくつか見繕って送ってくるサービス。ユーザーのウェブサイトの閲覧などの行動解析により、”賢くなって行く”ものといううたい文句だ。少し古いが、こちらの概説記事を参照されたい。

このダイヤモンドの記事の出だしが示すように、”情報収集”を実利的なものとしてとらえ、Gunosyはそのためのツールである、とみなしているようだが、僕はそのようにGunosyを見ていない。Gunoxyの存在意義はニュースキュレーションを通じたエンターテインメント性にあると思っている。

多くの人が称賛するように、Gunosyは「自分に合ったニュースを届けてくれる」という感覚を生む。だから「便利」と思う人もいて良いし、サービス提供者が功利性や利便性を目指すことも誤りだとは思わない。

ただ、本気で目的にかなった情報収集をしたいなら、それは”見繕ってくれる”とか、”届けてくれる”といった自分のコントロールの効かない方法に頼って居心地がいいはずがない。Gunosyに含まれる情報が自分の仕事にダイレクトに直結する確率、という点からすると全くダメ、といわざるを得ないし、Gunosyにそれを期待もしない。Gunosyを「実利的な情報収集のエンジン」として使うなら、テーマや情報源の特定、キーワードなどのパラメータ指定ができないと意味がない。

Gunosyは、利用者を、適度な受け身に置いてくれるところに妙味がある。全く関心のないものを排除してくれているだけで、自分が関与し統制をきかせているような錯覚に陥る。半分ぐらい関心のあるニュースが含まれていれば、「自分に合っている」と読者としては判断するだろうし(それは、あなたの性格はこうです、と断定されるとよほど違っていない限り受容してしまうのと同じこと)、「役に立つ情報収集」の範疇にない下世話なものを少し含んでいたとしても、それが楽しいものであれば読むし、関心のないものであればアクセスしなければいいだけである。

自分のケースで言うと、日本の新聞やテレビの報道に較べると、国際ニュース、経済ニュースや科学ニュース記事(多くはオピニオンや解説を含む)の比率が高く、芸能ニュースやスポーツニュースはほとんど含まれておらず、意外なものとしては2ちゃんねるなどで話題になっているトピックなどが混ざっている。総じて「つまみ食いしておいしい」情報のアソートメントになっている。

これは、電波に「ニュース」が支配される前の新聞の面白さではないだろうか。新聞は、世の中で起きている、知らないこと(ニュース)を新聞社が見繕ったパッケージ情報として一日一回届けてくれる、いわば情報のびっくり箱だったと思う。国民として知っておくべきことは一面で知り、その他自分の関心に応じて好きなところを拾い読み、すなわちつまみ食いすればいい。家族それぞれの趣味に応じて、スポーツの結果も、音楽評論も、小説もあれば人生相談もあり、読者のオピニオンもあり、マンガも載っている。そして、モビリティも高く、駅で買った新聞は喫茶店でも会社のデスクでも読める。

これが、速報性を電波媒体に委ねるとなると、事実としての「重要なニュース」を新聞で知る意味は一挙に薄れる。それは、配達された、あるいは新聞を買って読むときの「ワクワク感の喪失」に繋がったのではないだろうか。これがさらに、オンラインでの情報流通が進むと、新聞の画一化された情報パッケージは、その存在意義がますます希薄なものとなったと考えられる。そうした、新聞のエンターテインメント性をネットニュースの時代に復活させたGunosyを「未来の新聞」、と評するのは正鵠を得ている。

目的的な情報収集は、その目的に沿って「こういう情報が集められてくるべきである」という一つの基準が定められている。だから、集められた情報に対する態度も理性的でクールなものにならざるを得ない。また、情報が必ずしもフォーマット化されて縮約されていない分、読むか読まないかを峻別するのが難しい。逆に、Gunosyは「システムが見繕った」という受け身の分、驚きやワクワクがあり、個別のニュースのフォーマット化されていて読むかスキップするかも判断しやすい。そして、「自分に合った」というアイデンティティのつながり、すなわちEngagementを最初から備えていることがこのサービスの強みだと思う。

このサービスは「学習によってどんどん賢くなる」とうたわれているが、もしそうだとしてもそれは最初のうちだけだろう。人間の興味関心は、ある一点に収斂するような固定的なものではなく、その人が置かれた環境や動因によって常に移ろうものである。就活中なら、それにまつわるニュースやオピニオンに関心があるだろうが、内定を獲得した途端にそちらへの関心は雲散霧消して、旅行や恋愛に関心が移るなどということはざらにある。つまり、常時機械学習する意味は、移ろいゆく関心をモニターし、追随してゆくことにあると僕は思っている。

昨日のエントリでも少し触れたが、行動リターゲティングなどは、どうも人間の関心を巡って静的なモデルを基礎にしているのではないか、あるいは技術的に経時変化を追いかけることを取り込めていないのではないか、と僕は感じている。Gunosyのメンバーが日々磨きをかけている、「関心のトラッキング」および「喜ばれるレコメンデーション」のノウハウが、マーケティングコミュニケーション全体に還元されることを願っている。

カテゴリー: Advertising, MarCom | タグ: , , , , , | 2件のコメント

オンライン広告考3 Automated Online Advertising Curation

自分のPCディスプレイに表示される広告群をつらつら眺めると、有り体に言って荒んだ感じになっているのに気づく。ダイエット関係、整形関係、老化防止や健康関係、楽天などの通信販売の価格表示のオンパレードである。今はどこに行っても太った女性の太鼓腹と49歳、-29cmというバナーにお目にかかる。もちろんその他の広告もあるけれども、目立つのは上述のカテゴリーのものばかり。

これらは、基本的にオーディエンスの劣等感や恐怖に対して働きかけるものか、今すぐ買ってくれと言う主張である。脅し広告と呼ばれるものの比率が、オフラインのメディアにくらべて格段に高い。行動リターゲティング(リターゲティング)によって、これが、どのサイトにおいても似たような傾向を示す。

ある広告が、どのサイトにおいても似たようなフォーマットで掲載されると言うことは、レガシーメディアにおいては事実上、ほとんど起こり得ないことだった。ニューヨークのニューススタンドで買ったニューヨークタイムスの題字下に、怪しげな通信教育やらダイエット法の広告が、しかも日本語で、クオリティの低いビジュアルや大きな字で値段の書いてあるようなものを毎回目にするのは、ちょっと考えにくい。

つまり、クオリティペーパーと呼ばれるものなど、「メディアの格」というものが存在し、その紙面の物理的な有限性によって、あるいはメディア(媒体社)による考課を経て、自ずとそこに掲示される広告の種類に制限がかかっていたわけだが、アドネットワークによる機械的配信を許容するオンラインメディアではそうした暗黙のルールは崩れている。

こうしたことは、多くの情報サイトが無料で公開されていることと無縁ではなかろう。無料の情報提供を当たり前と感ずる消費者から、有料の購読による収益性が期待できないのに、武士は食わねど高楊枝を決めるわけにはいかない。無料であることと、個人データを秘匿することを同時に要求する傾向について「消費者はずうずうしい」とルディー和子は言い切っている

では、今のレベルの個人情報も提供し、情報源に対してサブスクリプションコストを払えば、こうした混沌から脱却できるのだろうか。僕はそれについて楽観視していない。

一つは、今の行動トラッキングは、消費者の心的状態とその変化について敏感ではないと思われるからである。実例に即して言うと、掃除機の買い替えが必要になったため、掃除機の性能や価格に関して調べていた。調べている間はそれなりに関心高まり、いくらで買えるかも情報として有益だったが、それを購入した時点から、掃除機の情報は自分にとって用済みとなった。買った後で、それよりも安い価格で売っているという情報を広告を通じて延々と目にするのは迷惑なだけである。

もう一つは、それぞれの広告主は自社の商品やサービスについての個別最適を図ろうとし、広告主ごとの競争に際しては、自然と声の大きい(広告費の多い)広告主の商品やサービスが、一人のオーディエンスをめがけて発信されることになる。広告主が、見込み客と思われる人をあぶり出し、その人達に自分たちの広告が数多く露出される以上のことを望むことはないだろう。フリークエンシー制御をかけるという措置を施したとしてもである。

こうしたことを回避するためには、一つには有料の購読者増を増やすために(あるいは増えた結果として)、当該メディアの純抗告枠比率を上げて考課(統制)を強化することが対策の一つになるだろう。

二つ目はFacebookのように、媒体内で提示される広告について個別に表示Offにする機能をつけるということである。これは、Noの意思を伝えられる、という点はいいけれど、面倒を背負い込むことでもある。

三つ目は、メディア横断的な観点から、頻度のみならず、一人のオーディエンスに対して発信される広告の種類の裁定や調整(一定時間における広告露出のミックス)を行うメカニズムを導入することが挙げられる。ここでは、単なる概念提示しかできないが、ニュースのキュレーションサービスのような広告のキュレーションサービスを考えてみたい。

あるオーディエンスがたとえば一日という時間軸の中で、オンラインサイトでの閲覧に際し、その人に発信される広告の種類や頻度や媒体を決めるアルゴリズムを用意する、というものである。例えばその人に配信されているGunosyの記事、といったより第三者的な情報源からその人の関心領域を推定し、関連するモノやサービスとのマッチングを図る、といったことが考えられる。(単なる例示なので著作権云々の議論はさておくものとします。)広告をオーディエンス単位で取扱うことにより、より、広告の受け手にとって「広告露出環境」がよいものになると実感されそうであれば、そのサービスはfeasibleだと言える。

その人の関心のありようをこまめに探る仕組みや、広告の受け手の快・不快のフィードバックループを確保するなど、まだまだ物足りないなあと一オーディエンスとしては感じている。

他方、そんなの承知の介で着々と物事は動いているような気もするが。

カテゴリー: Advertising | タグ: , , , | 1件のコメント

オンライン広告考2 Negative Impact of Advertising

苫米地のリターゲティング広告に辟易して、オンライン広告の負の効果について考えるようになった。

旧来のマスメディアにおいても、広告の負の効果は存在した。広告接触以前から商品やサービスに対する負の感情を持っていたり、推奨者や起用タレントに対する嫌悪感があったり、広告表現に対する不快感を持ったりした場合である。広告表現が差別的であるとして社会問題化したこともある。あるいは、断り書きの文字サイズが小さすぎて誤解を与えかねないことを不満に思うことなども負の効果と言えるだろう。

こうした負の効果も、オンラインのリターゲティングにおけるそれに較べれば、相対的に小さかったと言える。リターゲティング広告において負の効果がより高まる理由はいくつかある。

第一に、リターゲティング広告は露出の度合い(Share of Exposure)および頻度(Frequency)の二つが極端に高まること。

第二に、リターゲティングは、個人をオーディエンスとしているもので、「今広告に接触している人は広告されている商品やサービスの利用・購入の対象ではない」というエクスキューズがきかないこと。これは、広告送出の仕組みから言えると同時に、広告接触が極端に高まることによって、そうした仕組みを知らずとも「明らかに自分を狙い撃ちしている」という自覚を生む。過去にそのバナーをクリックしたという記憶があればなおさらである。

第三に、こうした広告バナーの視聴をする際、その広告を否が応でも目にしてしまう、メディアの強制力が増すこと。たとえば、旧来のマスメディアなら、その広告に接触するかどうかはある種の偶然に左右されやすい。これは、広告が時間上、空間上の定位置にあってそちらにオーディエンスが寄っていくのに対し、リターゲティングはオーディエンスの視線の先を追うような形で提示されることの違いによる。

第四に、オンライン広告は、それに接触した人のアクションをより強く期待するものであること。言い換えればConversionをより強く意識した広告の割合が増える。リターゲティング広告は、すでに商品やサービスに関心を持っている人を対象としている、という仮定のもとに送出されるため、どうしても主張が強くなる。マーケティングファネルの下層(BoFu)を狙ったものが相対的に増える。しかし、オーディエンスが当初から商品やサービスに対して無関心や無理解であった場合には、そのギャップは大きい。

こうした負の効果があることを(うすうすながらも)知りながら、Zajoncの単純接触効果などを援用してリターゲティングをすすめるオンラインビジネス営業用のブログなどを見ていると、何とも悲しくなる。(証拠はあるがあえてリンクは貼らない)。マスマーケティングとone to oneの混同、および行動変容のステージが整理されていないことに気づいていないらしい。

誤ったターゲットにピンポイントで広告を送ることは、広告主にとって、リスクの増大を招くことを意味する。これは、これまであまり重要視されてこなかった、広告のリスクマネジメントが必要になってくるということでもある。同時に、負の側面を加えなければ正しい広告効果測定などできない時代がやってくるようにも思える。

カテゴリー: Advertising | タグ: , | コメントをどうぞ

オンライン広告考1 Ad Stalking

苫米地英人というよく知らない人の目標達成プログラムという通販の広告バナーを誤ってクリックしたばかりに、インターネットのサイトを訪問する度に、何度も何度もこの広告に晒されることになった。このバナーにはインパクトを高めるためであろうか、ぎょろりと目を剥いた苫米地の顔が配されている。

そもそも、この目標達成プログラムという胡散臭い商品には全く興味がない。したがって普段なら無視するだけだが、この広告の振る舞い、すなわち露出は度が過ぎた。試みに記録してみたが、数時間の間に訪問したほぼ全てのサイトの目立つ場所で、この広告を目にすることになる。例外は、広告を掲載していない大学やらアルジャジーラニュースなどだった。

ニューヨークタイムスの記事を読もうとしても、題字下に苫米地が現れる。YouTubeで音楽を聴こうとしても苫米地の顔を見るはめになる。ついには苫米地に追いかけられ、睨まれているような錯覚に襲われることになる。ここまで広告に嫌悪感を催したのは初めてのことである。

まるで、広告にストーキングされているような気がして、Ad Stalkingというコトバが頭に浮かんだ。オリジナルなコトバかも知れないと検索をかけたら、すでにこのコトバは使われていることを知った。

さらには、こうしたAd Stalkingを禁止すべきだという意見もComputerWroldのサイトで2010年に提起されている

Cookieをクリアすることで、苫米地の顔に追い回されることはなくなったけれども、それに代わってダイエットやら健康食品のコマーシャルに追われ続けることになった。顔よりはマシとは言え、これらの商品やサービスには関心もなく、購入したり有料サービスを受けたりすることは金輪際ない。また、関心のない商品を際限なく表示する傾向のある楽天からは、できるだけ商品を買わないようにしている。

リターゲティングによって、広告の露出をコントロールできるようになったことは、広告主にとって喜ばしいことである反面、「クリック=関心がある」と機械的にみなしてしまう、低レベルの判断システムによって無用の攻撃性を発揮してしまうと言う広告の新たな側面を、オンライン広告に携わる者はもっと強く認識すべきだと思う。

リターゲティングとは文字通り、消費者を狙い撃ちするものであって、to huntの姿勢をむき出しにしているとも言える。To harvestを望むのであれば、本当にその広告がオーディエンスに望まれているかというチェックを厳密にチェックする方法を編み出すか、個別の広告についてこれ以上露出するなという意思表示を認めるかのいずれかだろう。Facebookは後者を可能にした希有な媒体である。

カテゴリー: Advertising | タグ: , , | コメントをどうぞ

ソシャゲへの反感は、ワインの方程式が生んだ反感と同じとは言えない

新清志の「ソシャゲへの反感はワインの方程式が生んだ反感と同じ」という記事を読んだ。興味を惹く主張だが、結論への導き方が乱暴で無理がある。影響力の大きい人の手になる記事なので、批判しておきたいと思う。

この記事はゲームと心理学と銘打った記事の第2篇。第1篇は、次のような内容である。ソーシャルゲームを1年間遊んでみたが、何か釈然としないものを感じた。ソーシャルゲームの会社を取材する中で、統計用語が飛び交っていて、何よりもデータが重視されていることに気づいた。そして、その違和感の出所として、こんな推論で括っている。

どうも、そこには最新の心理学の成果からは、人間特有の認知バイアスが存在すると考えていいようだ。我々はディフォルトで勘違いする生き物なのだ。どうしてもどこか認めたくないのだが、「データ様」が正しいのだ。

すなわち、ソーシャルゲームはデータ重視による運営が行われており、それが従来のゲームと異なる点であることに気づいた。同時に、自分(を含む人間)は、データ(やデータを扱うアルゴリズム)が正しいと言うことを認めたくない。それがソーシャルゲームに対する違和感(第2篇では反感)につながっているとの仮説が述べられている。

この仮説に、すでに誤謬が含まれている。ゲームの運営会社が気にするデータは、プレイヤー個人の立場からは明白に見えているものではない。記事の書き手が業界を取材して初めてその舞台裏を知ったというのが実情だ。つまり、個人データの集積およびその解析などは、プレイヤー個人の「認知」の対象ではないにもかかわらず、ゲームを遊んで得た違和感に、データドリブンなゲームの開発や運営に対する感想(認知)を重ねようとしているのである。

第2篇はこの仮説を実証しようと試みたものだ。まず、ワインの価格(品質)変動を3つの媒介変数による重回帰式でかなりの程度説明することができた。そのことで、前年の冬の降水量と、夏の育成期の平均気温と、秋の収穫期の降雨量がわかれば、ワインの品質は専門家によって決定されずともかなりの程度判定可能だし、将来予測も可能だということになる。

これに対する反感がワインの専門家から出たことと、ソーシャルゲームが数式などで表されるアルゴリズムによって支えられているから、それに対する記事の筆者(ひいてはゲーム愛好家や従来のゲームクリエイター)の反感は同根のはずである。よってこの記事は、ソーシャルゲームに対する反感は、人間のアルゴリズム(数式)支配に対する反感である、と結論づけたいようなのである。

まず確認しておくべきことは、ワインの品質を予測する方程式の判断基準はワインの専門家によって下された過去の品質評価だということだ。方程式があろうがなかろうが、ワインの良し悪しは、それを判別する人間の官能によって決められる。つまり、ワインの品質(おいしい、まずい)を判断する主体はワインの専門家であり、スキルセットは昔も今も変わらない、ということである。

ところが、現行のソーシャルゲームは、コンソールベースの従来型ゲームを開発したり遊んだりするスキルセットがそのまま適用されない可能性を大いに孕んでいることが、ワインの場合とは決定的に違う。面白いとか楽しいとか感じるツボやプレイヤーの属性が異なる可能性が高いのである。

ワインの場合は、ワイン対数式の構図が成り立つが、ゲームの場合は、ソーシャルゲーム対数式の構図の他に、ソーシャルゲーム対非ソーシャルゲームという構図も成り立つ。さらに、ゲームをディジタル以外に拡張すると、例えばパチンコというゲームに数式で表現可能な確率がそのビジネスを支えていることに対して、プレイヤーは違和感やら反発を表に出すことはない。

つまり、違和感の出所(原因)がアルゴリズム支配にある、という仮説は、ワインやその他の事例を持ち出したところで証明できないのである。ソーシャルゲームだけがアルゴリズムに支配されているわけでないのであって、ゲームはすべからく背後にゴールに向けての何らかのアルゴリズムを許容する。また、ソーシャルゲームを面白いと感じるツボが他のゲームとは異なることが違和感の出所であるという仮説を覆すこともできないのである。

この記事ではカーネマンの思考システムのモデルを持ち出して、こう断定する。

我々は自分たちが、統計的な存在にされたときに、「機械的」に感じて、ゲームをつまらなくしているように直感的に感じてしまう。それは、人間自身がそう感じるように作られているからである。

だが、統計的な存在であることを、ゲームによってプレイヤーが機械的に感じるという話は、ソーシャルゲームであるかどうかに関わらず常識的に考えて嘘である。リアルであれバーチャルなゲームであれアメリカンフットボールや野球をプレイしたり応援する人が、統計的な存在であることを機械的に悟り、直観的につまらないと感じるようにはなっていない。認知のバイアスと、前提となる仮説には直接の関係はない。

残念だが、自ら立てた仮説が正しいとの前提をおいて、それこそ認知バイアスによって三題噺のようにネタを組み合わせてみたものの、仮説の証明にはならなかったと結論づけられるだろう。

ただ、記事の筆者が感じた違和感について、それが何なのかをさらに突き詰めて考察することは無意味なことではないと思う。ゲームに感じた違和感やつまらなさを契機としたにせよ、ゲームの面白さとは何かを探り当てることは、ゲームの関係者なら誰でも挑んでみたいことだろう。

カテゴリー: Game+Marketing | タグ: , , , , , , , | コメントをどうぞ

主体的に待つことの意味–西きょうじ「情報以前の知的作法–踊らされるな、自ら踊れ」評

西きょうじ著「情報以前の知的作法–踊らされるな、自ら踊れ」を再読した。出版とともに頂いて一通り目を通したのだが、放っておいた。注が大きく書かれていたり、自ら書いたものに後からコメントをつけたり、ところどころ馴染めない、と思っていたからである。もちろん、それらのことはこの本が対象とする読者–すなわち下は中学生くらいから上は若手社会人や自己啓発好きの大人に至るまで–への著者からの心を込めたサービスであることはわかっていたが。

能弁な本である。博識な著者の好奇心のおもむくまま、話題はあちこちに飛び、一見まとまりがない。著者はそのことを百も承知でやっているのだろう。その時々、思っていること、思いついたことを語りきる、というのがこの人の長く続けたスタイルのようで、独特のリズムがそこにある。こういう本はそのリズムに乗るのが心地よい。

とはいえ、面白いネタが満載なので、一々そこで引っかかる。語りのリズムと読むリズムをうまく合わせるのがなかなか大変。2回読まないと読んだ気がしなかったのはそこにある。最初に読んだ時は、リズムに乗らず、2回目では自分のリズムで。最初は自ら踊って(踊るつもりで)読んだわけで、それでは楽しくなく、踊らされて読んだほうが楽しい本だという、なんとも皮肉な読書体験をさせていただいた。

大きな活字の注にでくわすと、ああ、これは読書になれていない読者のために、注の役割を教えようとしているな、とか手書き風のページ番号を見つけると、ひょっとするとなかなか読み進まない読者への心遣いだろうか、とか言う具合。引用、参照されている本を見てはああ、そうそうと思い出し、デジタル時計の秒針に対する思い入れの披瀝に対して、彼が身につけていたフランク・ミュラーが蘇り、自分は黒檀のような重くて堅い木の箸でなく、軽くて明るい花梨の箸を普段使っていることがふと浮かぶ、等など。

本を読んで考えたことの一つは、この本の帯、そして著者はしがきに書いてある、「さまざまな状況がめまぐるしく変化していく中で、あえて一度立ち止まり、ゆっくり思考を熟成させ、情報に踊らされないリテラシーを身につけること」というこの本の主題について。

著者のベストセラーである参考書に「ポレポレ」を冠していることから、著者はかねてから時間をかけて何かを行うことの意義を伝えようとしてきたのだと思う。因みにポレポレとは、スワヒリ語でゆっくりという意味。(僕は、このコトバを聞くと岩合日出子の書いた「アフリカポレポレ」という本を思い出す)

ところで、この主題を縮約すれば、「主体的に待とう」という呼びかけではないかと考えた。そのことがもたらす効用について、図にしてみた。これらの効用は、すべて「待つ人の主体性」によって支えられている。仮にこの主体性を欠くことで、待つことの持つ「遅い」「非効率」「鈍重」などの負の側面が立ち現れる。

Evernote Camera Roll 20121217 092828

生き馬の目を抜くビジネスの世界で、遅いことは致命的ですらある。それゆえ、ビジネスマンは早く、少しでも早くと叱咤される。そうして、いつしかゆっくりすること(遅いこと)はいかなる局面でも悪しきことだと錯覚してしまう。主体性を欠いてただ急ぐことで、急ぐことの負の側面に晒されることになる。かつてIBM社員が常に目にしていたであろう、Think!の背後には「主体的であれ」ということが潜んでいる、と気づく。

そもそも、人生は生き急ぐことを前提としていない。長く、ゆっくりこの世に遊ぶことを誰しもが味わいたいと願っているはずだ。

などと考えながら、この本を読んだ。自分の中にしっくり収まるまでに時間がかかるように、著者の手腕で見事に踊らされたというわけである。

カテゴリー: Books | タグ: , , , | コメントをどうぞ