Wikipediaにみんなが無償で寄稿する理由(改訂版)

数日前、高広伯彦がこんなことをFacebookに書いていたのが引っかかっていた。

贈与経済の話って、ほんとなんだかなぁ、って思うわけ。それよりも、英の社会学者 David Gauntlettが掘ってるような、「なぜ経済的利益を得られるわけではないのに、みんな無償でWikipediaなどに貢献すんの?」って議論のほうがよほど本質ついてると思うんだが、これを拾ってる日本の研究者がまだ少ないよね。

Wikipediaになぜ、皆が無償で貢献するのか。

Wikipedia Explainedという記事において、Gauntlettはまず、Clay Shirkyの説を援用し、Wikipediaは百科事典のもつ内容の信頼性を与える権威を、Britannica以前の書き手個人の専門性や Britannicaという団体(institution)に委ねることにチャレンジし、編纂過程の可視化によって獲得していったことを挙げる。この編纂過程の可視化によって、誰もが誤りの訂正や説明不足の補遺ができるようになり、(他者から専門家としてのお墨付きがなくとも)トピックに関心や熱意のある人が寄稿しやすくなった。Gauntlettは、Wikipediaに寄稿することは、たまの他者からの称賛に加えて、コミュニティの一部でありたいという人間の基本的欲求を満たし、帰属感覚(sense of belonging)が得られる、と言う。

(Maslowの欲求段階説に含まれる)社会的欲求(帰属欲求)と、自我欲求(誉められること)を一般の人が満たせる仕組みをWikipediaが作った、というのがGauntlettの直接の答えだが、彼による「掘り下げ」は、ドイツの社会理論家Harbermasが1960年代に提唱し、一旦は「理想的ではあるが実現できない」と学者達にみなされていた公共圏(public sphere、Öfentlichkeit)の考え方をWikipediaという場が再び可能にしていると示唆したことだろう(上掲記事)。

Wikipediaに人が無償で寄稿する理由として、他にも説明があった。

ルディー和子が近著、「ソクラテスはネットの無料に抗議する」の第2章で、この話題を取り上げ、『ウィキペディアへの寄稿は「神への贈与」と同じ』と小見出しを設けている。そして、”(Wikipediaが無料の提供を可能にしているのは)、記事を書いているのはボランティアであり、サーバーや通信回線などの諸経費は寄付によってまかなわれているからです。” としたうえで、次のように書いている。

 寄付をするという行為というのは、神への贈与から始まっていると考えられています。
人間と神との関係も、贈与交換の関係です。
(中略)
国が変わろうとも、民族が異なろうとも、その歴史をたどれば、遠い昔に神に生け贄を供えるという共通した習慣を見つけることができます。神(自然が擬人化された存在)から命という贈り物を受けているのだから、そのお返しには、同等の価値を持つものを返礼としなくてはいけない。といっても自分の生命を差し出すわけにはいかないので、代理の生命をということで、動物を生贄にしてお供えするのです。それが次第に、他のモノで代理されるようになり、お金へと変化していきます。

間違いであるとまでは言えないにしても、こちらの説明は乱暴だと感じた。神への贈与というのは現代に生きる人が普段意識していないであろうことと、Wikipediaに寄稿している人が、なにがしかの無償の理由を神以外の何かに対して感じないのだろうかと思ったからである。寄稿や寄付を生贄や犠牲の名残とするのではなく、give(寄稿)に対するtakeがどこか別にあると考える方が腑に落ちる。現代社会での事象は人対人との関係性の枠組みで捉え直さないと、神というオールマイティを持ち出した途端に議論が前に進まなくなると思う。

Gauntlettの示唆するように、Wikipediaをコミュニティへの帰属欲求を満たす装置とみなすのは一つの説明として理解しやすい。ただ、基本的欲求である帰属欲求の源泉となる、コミュニティが形成されやすい要因はどこにあるのだろうか。

神への贈与説に対するものとして、別の説明を思いつくきっかけは、5月5日にKindleで発売されたばかりの小口覺著「日本ネット前史」の第6章、パソコン通信文化論を読んでいたときだった。日本のパソコン通信黎明期において、先行していたアメリカのように横のつながりがなかなかできにくい、という件にピンときた。(なお、この本にも引用されているが、スティーブン・レビーの「ハッカーズ」という分厚い本にも、PCを産み、育てていったアメリカのハッカーのコミュニティ–すなわち横につながった人々のネットワーク–について活写されている。)

このときにまざまざと思い出したのが、1980年代終わりころに僕が参加していた日経MIXのIBM PCのフォーラムだった。ここに出入りする人々はアメリカのIBM PCに関心の高い連中だった。その中心メンバーである、日本IBMの社員が繰り返し強調していたのが、(アメリカの)PCは、DIYが基本なのだ、ということ。だから、人に頼るだけでなく、自助努力をせよ、ということだった。

確かに、会議に出てもお菓子や飲み物(refreshments)は”Help yourself(どうぞご自由に)”という形で供されることが多く、do it yourselfや、help yourselfは、アメリカ人の骨の髄まで染みこんだドグマではないかと思う。銃規制がなかなか思うように行かないのも、protect yourselfというドグマのシンボルとして銃がみなされているからだとの解説を聞いたことがある。つまりDIYは自由を求める精神と表裏一体の関係にある、と考えられる。PC文化が(メインフレーマーとしてのIBMなどの権威に対抗する)カウンターカルチャーと結びついていて、これらが反権威の弱い個々が集団として立ち向かう力を得るためには、それぞれのメンバーを助け合うコミュニティができやすいのではなかったか。

Wikipediaは、カウンターカルチャーとは直接の関係はないけれど、help yourself(自ら調べるここと)のためのツールであり、誰もが参画できることと編纂の可視化と一体化した、権威に縛られないディスカッション主体の協働(collaboration)を行いやすい環境を提供している。フラットな関係性の中での議論による合意形成、中立性の確保が、間断なく行えることをWikipediaは実現している。

神にも為政者(すなわち権威)にも頼らないhelp yourselfベースの自治組織という「コミュニティイメージ」の有無や強度が、そうした集団を形成させる力となって働き、そこに帰属する感覚やよろこびを増幅させるのではないか。

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(お断り: ① 本稿も含めて、今後の記事については基本的に文中敬称略とさせていただきます。②:「GauntlettがWikipediaにどのような立場をとっているか知らない。この人自体をよく知らない」、と書いたところ、そんな中途半端な引用をせず調べてから書くべきだ、との示唆が引用元からあったため、その部分を削除し、全体を書き改めました。なお、前回ポストについて、一般には公開せず、非公開モードでのみ残すことにしました。)

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大下文輔 について

Communication Strategist, Freelance
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