不思議な喫茶店

泉岳寺の駅から坂を上り、伊皿子から下った魚藍坂交差点のそばに、Pという古くて小さな喫茶店がある。この界隈ではおしゃれな店、大衆的な店とさまざまな店が出てはつぶれと、入れ替わりがとても激しく、飲食店として生き残っていくのは大変である。Pはその風雪に耐えて生き残っている数少ない店の一つである。

この界隈で、今日、学生とミーティングをすることになり、ふと、このPを思い出して、そこで会うことにしようと思った。だが、何せ10年ぶりであり、今あるかどうかは保証の限りではない。

食べログで調べると、載っている。この店の食べ物はお昼時に出る、オムライスとかカレーとか生姜焼きの類いで、特筆すべきものは何もない。4件のレビューは、☆三つ。褒め言葉が並んでいるわけではない。添えられたスープの味付けがしょっぱいとか、冷凍の野菜を使っているとか、具なしのスパゲティのつけあわせとか、読んでいて入りたくなるような記述はほとんどない。そして、お昼の定食なのにサービスのコーヒーがない、という辛口コメントが2つ。

なぜ続いているのだろうかと、最近聞かなくなったさおだけ屋の声を思い出しつつ考えた。経営的に成り立っていないけれど、ご先祖様の遺産がっぽりだとか、宝くじにあたったとかそういう話はあるかも知れない。でも、それなら普通は続かない。続ける理由がそこにあるから続いているし、危ないかも知れないながら経営的にもなんとかやっていけている、と考えるのが妥当だろう。

一つはこの店が無休であること。休みが増えれば収入は減る。それを休まない、という単純な原理で支えている。本当に休まないかどうかは知らないが、休む理由のない休みはとらず、従って定休日を持たない、ということだろう。

ずっと夫婦(とおぼしき二人)で切り盛りしており、余分な人件費をかけることはない。

そして、変えない。茹でたスパゲティにうっすらケチャップをかけたものを付け合わせに出す、というのは1970年代の定番だった。1980年代も半ばを過ぎると、なんだか古くさい感じすらしたように思う。それを2000年になっても「止めない」というのは、変えないことをポリシーにしているがゆえだろう。

自分の流儀を通すとは、言い換えれば頑固だということだ。そういう店は客の声に耳を傾けることはしない。たとえば、喫茶店でありながら、ランチにサービスのコーヒーをつけないのはおかしい、とかつけるべきだ、という話に耳を貸さない。

おそらく、ランチにコーヒーをつけてはどうか、という考えがあることなど、とうの昔に知っていただろう。ひょっとしたらそういう試みを過去に行ったことがあるのかも知れない。しかし今はそうしていない。コーヒーつけたらランチが1000円を超えてしまったというプチ嘆息がお客に生じたとしても、「店主の気まぐれ」でランチにコーヒーが付くことにならないだろう。

こうした店を支えているであろう、常連と呼ばれる人たちはすべてを諒解済みで通ってくる(もちろん希望として、ランチにコーヒーがあればなあ、ということはあり得るだろうが。)そしてプチ嘆息を残して帰る一見さんの満足をほんの少しあげたとしても、リピートにつながることもなければ、長期的に考えて利益になることもないだろう。

この店の価値は、出される食べ物・飲み物にあるのではないと思う。例えば今やこの店の、もつ昭和の空気感というものが、この店でしか経験できない独特の味わいになっていて、そこに居ることの何か、を感じさせる。それがこの店にわざわざ入ってそこでひとときを過ごす意味である。

こうしたことは、食べ物に注目した批評からはなかなか伝わってこない。そこに行って、さらにどう感じるか、は他人には全くわからないはずだ。食べログに書いてあることも、文面ではなく行間を読まないと、書いた人の本当の気持ちはわからないだろう。

レストラン、喫茶店など飲食の場というものは、そこで出される食べ物だけで評価できるものではない。食べる、ということの奥深さがそこにある。

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大下文輔 について

Communication Strategist, Freelance
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