「本を売る図書館」の両義性

夜の7時すぎ、海老名に用があったので、Googleの検索情報は16:50でその日は閉館になっているということだったが、スタバや本屋はまだやっているかも知れないと思い、散歩かたがたリニューアルオープンした海老名図書館に行ってみることにした。

海老名駅は、開発の進んでいる側とこれから、の側に別れる。図書館のあるのは人通りの少ないさみしい方である。

5分以上歩いて忽然と現れた文化会館と、隣接する図書館。近づくと、高校生とおぼしき連中が建物からちらほら出てくる。灯りも煌々としていて、人の動きも見える。市立中央図書館は21:00までの施設になった。それだけでも、お役所からの脱皮が伺える。

吹き抜けがあり、天井高の明るく解放的な空間。暖かみのある光。スターバックスの高いスツール。一息つくにはとても良い場所だと思う。海老名の駅を利用する人が、通いたくなる場所になるだろう、と思った。 続きを読む

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Gunosyが置き去りにしたSearchの意味

株式会社Gunosy初の発表会で、代表の福島氏がスピーチしている。
http://logmi.jp/27930

立ち上げ3年目にしてダウンロード700万。最近では月間DLが100万のペースとなりぐんと加速した。(MAUの規模は不明ながら)DAU/MAUのアクティブユーザー率46%云々と景気のいい数字が並ぶ。サービス開始時のニッチに終わるのではないか、という憶測を、良い意味で裏切ることができたという福島代表は振り返る。本当にすごいなあと思う。

そして今後は、スマートフォンのポータルサービスとしてGunosyを位置づけていくという。めでたい話である。しかし、そこに到るまでの経緯のロジックには首をかしげざるを得ない。

発表に使われたスライドで、彼はまず、AISASを持ち出す。

Attention→Interest→Search→Action→Share

そしてこれをPCのユーザーの行動モデルと位置づける。ここにおける真ん中のS、すなわちSearch、検索の役割がスマホでは揺らいでいる、と説く。で、次のスライドで、このSを抜いた行動モデルを提示している。

Attention→Interest→Action→Share

書き起こしを読む限り、福島代表は直接的にこのモデルについて言及していないが、AISASをPCのユーザーの行動モデルとするなら、Gunosyの想定するスマートフォンのユーザー行動モデルだと考えて良いだろう。

しかし、AISASからSを抜いても、AIASにはならない。なぜなら、AISASの二つのSは互いに関連するもので、AISASからSを抜けば、AIAになる。もっというと、AISASのS抜きは、古典的なAIDAである。

そもそも、AISASは、インターネットが、それ以前のメディアになかったユーザー(消費者・生活者)の能動性、すなわち意思が検索や共有という行為を生み、意思の反映としての行為を行動モデルに組み込む必要によって成り立っている。

Shareは、何かをした、何かを買ったという行為を自分の意思(Intention)の表現として行うというそもそもの前提がある。Searchにおける、行為の能動性または意思の発露を捨象してしまうことは、行動モデルとしてはそれに連なるShareも同時に捨て去ることになる。

AISASからSearchを抜く、ということは、その行為の主体者であるユーザー(消費者・生活者)に対する見方を変えると言うことでもある。消費者を、より受け身の存在として見なす、というものである。これは、デバイスがPCであるか、スマートフォンであるかを問わない。

福島代表は古典的な検索を通じた購買への過程が消費者にとって煩わしいものだから、(とりわけスマートフォンでは)その過程を省くことのできるより便利なポータルサイトを構築したいという意図のもとにAISASからSearchを抜いて説明したのだと思う。

しかし、それは今のところ、Gunosyは従来同様のマスメディアになる、ということと変わらない。

何よりも、行動の起点が記事という名の広告におかれている。彼の発言中記事というコトバは7回出てくるが、それをすべて広告に置き換えても全く違和感がない。そこにはGunosyがとりまとめた記事という名の広告連動の情報を提供することで、消費者は関心を高め、それを欲しいと思い、間髪を置かず買う、さらにはそれを他人に告げる(シェアする)という一直線の行動の想定がなされている。単純な刺激-反応(SR)モデルである。

福島代表はこのスピーチの冒頭で、「情報を世界中の人々に最適に届ける」のがGunosyのミッションだ、と述べている。ここでいう情報の典型はGunosyによって選ばれた記事だろう。「最適に届ける」ということが、今現在どのようになっているのか、進化の様相もわからなければ、そもそも最適とは何か、ということも不明なままだ。

スマートフォンのポータルを目指すというGunosyにとって、検索の役割が変わるということが意味するのは、単に広告連動(もしくは広告発信主体の企業チャネルへの送客につなげる)によって、検索させないだけではないか、という懸念は今のところ拭えない。それがAmazonをどうやって乗り超えるのか、スマホポータルとしてGoogleとどう闘うのか。

告白しておくと、僕は今年になってから、Gunosyを参照することがなくなり、今ではスマホから削除してしまった。一番の理由は、Gunosyのユーザー数拡大に伴って、自分にとって関心のない、適切でない情報ばかりが送られてくるようになったからだ。送客パワーの源泉は、「最適に届ける」ことにあるはずなのだが。

福島代表とその仲間は再び、良い意味で懸念を裏切って欲しい。

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Gunosyの火事場見物についての所感

ゴールデンウィークの暇にあかしてGunosyを持ち上げる記事を書いたが、その間にネットの炎上が何段階か起きた。ボヤだと思っていたら、花火と見まごうたか野次馬がきて、そこで瓦版が何種類か配られ、黒板色の大物まで参加した。

最初に火をつけたのは、「Gunosyのレコメンドエンジンの仕組み解説」と、比較的穏やかなタイトル。解説しているんじゃなくて、仮説を出しているのだと読み替えれば、面白いけどそれはないだろう、で済む話。

たまたまその記事が「レコメンデーションのプロセスに、読者の分析なんかないんじゃないの?」という疑問形ではなく、断定口調と「怪しさ、種明かし」などと煽りワードがまぶしてあったので、それを事実と思い込んだ人が湧いて出た。「衝撃:Gunosyはただの「はてブ拡張サービス」だった?衝撃の分析まとめ」と題されたまとめがでて、Gunosyあやしーくらいのうっすらした疑念を抱いていた人が燃え上がった。

やまもとブログにもあるように、この段階で無視を決め込むのも一つの見識だし、誤解を正した方がいいと思えば、早めに「Gunosyのリコメンデーションエンジンは、分析のプロセスを含んでいて、取得先は複数ある」ことを伝える社としての公式見解を出すかのいずれかだっただろうと思う。

IPAでGunosyの内容を知る研究者(PM)が何の工夫もないレコメンデーションエンジンに「アルゴリズムの改良」や「学術的意義と実装力」などの評価を与えた、という疑惑が浮かんだとしたらこれはスキャンダルだ。(こうした視点に立つなら、この一件のニュースバリューは上がるわけで、サービス開始したばかりのHuffington Post日本版の大ネタに昇格するやも知れないけど、それを支える仮説がしっかりしたものでないとね。)

その後反証もあらわれて沈静化の兆しをみせたところに、半鐘を叩いておじゃんにするという二段ロケット点火術開陳。会社のブログにマーケティング担当者の「ここ最近のGunosy関連の批判についての所感」という位置づけのよくわからない文章が掲載されて、ゴールデンウィークの退屈しのぎのネタとなったようだ。

担当者が「こんな風に思っています」を示唆する「所感」というタイトルでかかれた長い釈明の冒頭、「ここまで大きな騒動になっているのに会社として何も出さないというのもよくないと思いまして」という微笑ましい書き出しが、社員数の少ないこの会社の意思決定プロセスやら指示系統の混乱ぶりを伺わせる。楽屋裏を案内してくれるのもいいけど、もっと簡潔に書かないと。

見かねたネット上の赤ペン先生達が動き出して、いろいろ教えを説くのだけど、炎上もエンターテインメントのイベントだなあと感じる。赤ペン先生達はそれぞれに、謝罪の仕方だとか、PRの仕方とか説明してくれている。(例えば、「Gunosy炎上に関して、方々に苦言を呈すの図」、とかこれ「僕がGunosyの社長だったらこのように謝罪文を書きます」(全部正しいとは思わないけど)

赤ペン先生を含めたGunosy応援団には「温かく見守ってやるべき」という趣旨の意見を見ることがある。僕は応援団のつもりだが、なま温かく見守られるより、場外乱闘のリングサイドを尻目にGunosyは黙々と技術やサービス改良に努めていただきたいと思う。将来敵になると睨んだら、早いうちから芽を摘んでおけというのがビジネスの摂理だからだ。

一連の火事場見物で改めて感じたことは、記事配信を含めた、会社としての方針や判断基準の大切さだ。公式所感(笑)を読んでみると、NAVERまとめを配信しなかったことについて、方針や基準というものへの認識が薄いように思える。方針を優先するなら、「わが社はアフィリエイト目的とみなされる記事については配信しないことを旨としており、このまとめ記事に関してもそのように判断したため配信しませんでした」ときっぱり述べればいい。自社への悪意は読者諸兄にまかせるとしても、アフィリエイト目的の記事を配信しない、というのは読者保護の観点からも立派なポリシーではないか。今回のように、疑わしいものについてはどうするか、というのは難しい問題ではあるが。

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Wikipediaにみんなが無償で寄稿する理由(改訂版)

数日前、高広伯彦がこんなことをFacebookに書いていたのが引っかかっていた。

贈与経済の話って、ほんとなんだかなぁ、って思うわけ。それよりも、英の社会学者 David Gauntlettが掘ってるような、「なぜ経済的利益を得られるわけではないのに、みんな無償でWikipediaなどに貢献すんの?」って議論のほうがよほど本質ついてると思うんだが、これを拾ってる日本の研究者がまだ少ないよね。

Wikipediaになぜ、皆が無償で貢献するのか。

Wikipedia Explainedという記事において、Gauntlettはまず、Clay Shirkyの説を援用し、Wikipediaは百科事典のもつ内容の信頼性を与える権威を、Britannica以前の書き手個人の専門性や Britannicaという団体(institution)に委ねることにチャレンジし、編纂過程の可視化によって獲得していったことを挙げる。この編纂過程の可視化によって、誰もが誤りの訂正や説明不足の補遺ができるようになり、(他者から専門家としてのお墨付きがなくとも)トピックに関心や熱意のある人が寄稿しやすくなった。Gauntlettは、Wikipediaに寄稿することは、たまの他者からの称賛に加えて、コミュニティの一部でありたいという人間の基本的欲求を満たし、帰属感覚(sense of belonging)が得られる、と言う。

(Maslowの欲求段階説に含まれる)社会的欲求(帰属欲求)と、自我欲求(誉められること)を一般の人が満たせる仕組みをWikipediaが作った、というのがGauntlettの直接の答えだが、彼による「掘り下げ」は、ドイツの社会理論家Harbermasが1960年代に提唱し、一旦は「理想的ではあるが実現できない」と学者達にみなされていた公共圏(public sphere、Öfentlichkeit)の考え方をWikipediaという場が再び可能にしていると示唆したことだろう(上掲記事)。

Wikipediaに人が無償で寄稿する理由として、他にも説明があった。

ルディー和子が近著、「ソクラテスはネットの無料に抗議する」の第2章で、この話題を取り上げ、『ウィキペディアへの寄稿は「神への贈与」と同じ』と小見出しを設けている。そして、”(Wikipediaが無料の提供を可能にしているのは)、記事を書いているのはボランティアであり、サーバーや通信回線などの諸経費は寄付によってまかなわれているからです。” としたうえで、次のように書いている。

 寄付をするという行為というのは、神への贈与から始まっていると考えられています。
人間と神との関係も、贈与交換の関係です。
(中略)
国が変わろうとも、民族が異なろうとも、その歴史をたどれば、遠い昔に神に生け贄を供えるという共通した習慣を見つけることができます。神(自然が擬人化された存在)から命という贈り物を受けているのだから、そのお返しには、同等の価値を持つものを返礼としなくてはいけない。といっても自分の生命を差し出すわけにはいかないので、代理の生命をということで、動物を生贄にしてお供えするのです。それが次第に、他のモノで代理されるようになり、お金へと変化していきます。

間違いであるとまでは言えないにしても、こちらの説明は乱暴だと感じた。神への贈与というのは現代に生きる人が普段意識していないであろうことと、Wikipediaに寄稿している人が、なにがしかの無償の理由を神以外の何かに対して感じないのだろうかと思ったからである。寄稿や寄付を生贄や犠牲の名残とするのではなく、give(寄稿)に対するtakeがどこか別にあると考える方が腑に落ちる。現代社会での事象は人対人との関係性の枠組みで捉え直さないと、神というオールマイティを持ち出した途端に議論が前に進まなくなると思う。

Gauntlettの示唆するように、Wikipediaをコミュニティへの帰属欲求を満たす装置とみなすのは一つの説明として理解しやすい。ただ、基本的欲求である帰属欲求の源泉となる、コミュニティが形成されやすい要因はどこにあるのだろうか。

神への贈与説に対するものとして、別の説明を思いつくきっかけは、5月5日にKindleで発売されたばかりの小口覺著「日本ネット前史」の第6章、パソコン通信文化論を読んでいたときだった。日本のパソコン通信黎明期において、先行していたアメリカのように横のつながりがなかなかできにくい、という件にピンときた。(なお、この本にも引用されているが、スティーブン・レビーの「ハッカーズ」という分厚い本にも、PCを産み、育てていったアメリカのハッカーのコミュニティ–すなわち横につながった人々のネットワーク–について活写されている。)

このときにまざまざと思い出したのが、1980年代終わりころに僕が参加していた日経MIXのIBM PCのフォーラムだった。ここに出入りする人々はアメリカのIBM PCに関心の高い連中だった。その中心メンバーである、日本IBMの社員が繰り返し強調していたのが、(アメリカの)PCは、DIYが基本なのだ、ということ。だから、人に頼るだけでなく、自助努力をせよ、ということだった。

確かに、会議に出てもお菓子や飲み物(refreshments)は”Help yourself(どうぞご自由に)”という形で供されることが多く、do it yourselfや、help yourselfは、アメリカ人の骨の髄まで染みこんだドグマではないかと思う。銃規制がなかなか思うように行かないのも、protect yourselfというドグマのシンボルとして銃がみなされているからだとの解説を聞いたことがある。つまりDIYは自由を求める精神と表裏一体の関係にある、と考えられる。PC文化が(メインフレーマーとしてのIBMなどの権威に対抗する)カウンターカルチャーと結びついていて、これらが反権威の弱い個々が集団として立ち向かう力を得るためには、それぞれのメンバーを助け合うコミュニティができやすいのではなかったか。

Wikipediaは、カウンターカルチャーとは直接の関係はないけれど、help yourself(自ら調べるここと)のためのツールであり、誰もが参画できることと編纂の可視化と一体化した、権威に縛られないディスカッション主体の協働(collaboration)を行いやすい環境を提供している。フラットな関係性の中での議論による合意形成、中立性の確保が、間断なく行えることをWikipediaは実現している。

神にも為政者(すなわち権威)にも頼らないhelp yourselfベースの自治組織という「コミュニティイメージ」の有無や強度が、そうした集団を形成させる力となって働き、そこに帰属する感覚やよろこびを増幅させるのではないか。

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(お断り: ① 本稿も含めて、今後の記事については基本的に文中敬称略とさせていただきます。②:「GauntlettがWikipediaにどのような立場をとっているか知らない。この人自体をよく知らない」、と書いたところ、そんな中途半端な引用をせず調べてから書くべきだ、との示唆が引用元からあったため、その部分を削除し、全体を書き改めました。なお、前回ポストについて、一般には公開せず、非公開モードでのみ残すことにしました。)

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Gunosyの利用割合が上がるわけ (2)

 

 

メール、WEB、アプリと3種類ありながら、Gunosyは基本的に同じ構造をしている。一日最大25のニュースがあって、一日の枠の中で並んでいるだけである。Webとアプリでは横にずらして過去のニュースにアクセスする。

方や日経のようなニュースサービスは、メール、アプリ、Webサイトとそれぞれが異なっていて、Webサイトに記事はアーカイブされることを基本とする。メールを見るとわかるのだが、ニュースの中に速報性を主体としたものと、解説を主体にしたものとが基本的に混ざっている。

アクセス構造比較

 

Gunosyは基本的に同じ構造を持つ3種類の口があるのに対し、日経のようなニュースはそれぞれ異なる構造を持つ。

Gunosyの構造を単純にしている要因は、なんといってもニュースの総数が限られているということにある。そして、いくつかの話題は重複していることも少なくない。つまりは、全部読んだとしても、それにかかる時間はあまりかからない。キュレーションサービスの一配信あたりのニュースがいくつが適当かは人によって異なるだろうが、暇だったら全部読めるくらいの感覚が心地よいのではないだろうか。

Gunosyはニュースのカテゴリ化や、アーカイブにあまり意味はないと僕は思っている。つまり、夕刊紙のような「読み捨て」を基本とするものだと考えている。

送られてくる情報が多くなると、「選ぶ」ことにエネルギーを費やすことになる。それが、仕事に直結するものであれば重要な情報を漏らすことなく拾っておきたいと思うが、そうでない場合は、自分の興味のあるもの(仕事を超えて重要なもの、趣味や娯楽として消費するもの)、他人と話題を共有するためのもの情報は「そこそこ」がいいと思われる。結局ニュースサイトでも「選ぶ」ことの負担軽減として「ランキング」が用意されていることが多い。ランキング上位は、他の人が興味を持っている情報だが、「他の人の興味」が自分の興味をかきたてる、というのもまた自然なことで、Gunosyも世の中で注目されている、例えば今で言えばアベノミクスやら中国ネタやら、五輪招致問題に関するものがそこそこ送られてくる。

まとめると、僕がGunosyを他のニュース配信サービスよりもよく利用する理由は、1) 配信されるニュースの数も回数も多すぎず、「選ぶ」苦労をしなくていいこと(つまり受け身でいられること)、2) ダイジェストされている部分を眺めているだけでもある程度読んだ気になれるものがあること、3) 興味の乏しい話題が含有率が低いこと、4) 読み捨てで構わないと思えるのと同時に、かなり読んでいる(積み残し)が多くないと感じられること、5) PCでもWebでも内容(配信されているニュースコンテンツ)が同じなので、アクセスしやすいこと 6) カテゴリに縛られない柔構造(悪く言えば無秩序)が、かえって気楽な感じをもたらし、心地よさにつながること、などだろう。さらに言えば、自分であまり情報を取りに行かないWashington Postだとか、Financial Timesの記事などがぽつりぽつり入っていて、知的好奇心を刺激してくれるというのも大きな理由だ。「知的スナック+Fun」の読み捨てメディアが、Gunosyだと言ってもいいだろう。

 

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Gunosyの利用割合があがるわけ (1)

ふと、Gunosyを他のニュースサービスよりも利用するのはなぜだろうと考えた。利害関係がないにしても、知り合いが始めたサービスだから身びいきになるのではないか、とも思うが、どうもそれだけではなさそうだ。

自分の場合、毎日定期的にメールで配送されてくる情報がそこそこある。日経新聞、朝日新聞、Cnet、日経BP関係の諸々、パソコンショップのものやら写真投稿サイトものから、AdAgeとかMarketingなんちゃらとか、何とかポイントのものもあわせるとざっと15種類くらいはあると思う。しかもどれが日刊だかもよくわからない。

その多くは、始める経緯は同じようなものだ。

まず、読みたいと思う記事があってそのサイトに行くとそこで何らかの個人情報入力と引き替えに定期購読の契約を余儀なくされる。その記事を読み終わっても、次の日から情報はじゃんじゃんばりばり送られ続ける。中には、ファイル転送サービスを利用するのと引き替えに、全く興味のない情報を送りつけてくるものもある。

一つの記事でなく、媒体そのものを定期購読したいと思うものもある。多くは目的的情報収集のために利用するものだ。だが、一部を除いて、メールで送られてくるタイプのものは、毎日きっちりチェックすることは日を追うにつれてだんだんしなくなる。

かたやアプリタイプの情報源。これも、定期的に更新はなされるが、毎日きっちりチェックするものはほとんどない。「チェック」には能動性が要求されるわけで、そこにアクセスするきっかけがないと、自然と利用頻度が下がる。

Gunosyは購読を初めたのは2011年の10月くらいだから、1年以上になる。アプリができてからは電話とタブレットに入れて利用している。メール、web、アプリのどれかによりほとんど毎日利用していることは事実である。

僕の場合、Gunosyは他のサービスよりも二つの指標で利用度合いが他を圧している。

まず、定期配信回数(D)に対してアクセスした回数(A)。これを仮にチェック率(C)と読んでみよう。C=A/Dで表現されるメトリックである。日経や朝日のように一日数回送られてくるものもあるし、日経の雑誌系のように週に一回程度のものもある。

もう一つは、一回あたりに配信(紹介)されてくる記事数(DA)に対してを読んだ記事の数(RA)。仮に消化率(PR)と呼んでみよう。PR=RA/DAで表現される。

チェック率、消化率ともにS/N比のようなものである。要は無駄が少ないということ。この二つの指標のうち、消化率がGunosyと他のサービスで決定的に差が出ると思うのだ。消化率で生まれた差が、チェック率にもだんだん影響してくるように思う。これを、日経新聞を例にとって説明してみる。

日経新聞の配信サービスは、日本の経済紙のクオリティーペーパーである。媒体に対する信頼性は高く、解説記事もしっかりしたものが多い。(口うるさい人はいろいろ言うけどね)。つまり、僕にとっては媒体に対する信頼性も記事に対する興味関心も比較的高い。だから、一日数回配信があっても1回くらいはチェックしている。つまりチェック率は比較的高い。日経の場合ビジネスに直結するものは必ずしも多くなく、興味のある記事を知的スナックのように読む感じ。

他のニュースサービスと同じく情報が送られてくるとき、メールのタイトルに気を引く記事、いわば目玉記事のタイトルが書かれている。これがメールを開かせるための呼び水になっている。たしかに魅力的で、”ルポ迫真”などと書かれていて、興味を引く。

この時点で、媒体側による記事の重みづけがなされている。いわば目玉記事とそうでない記事が区別されているのだ。タイトルが並んでいるだけで、それ以上の解説はない。並んだザッとタイトルを見て、一番面白そうな記事をクリックしてサイトに飛んで行くという仕掛けである。

この時のメールの記事一覧への「行ったり来たり」の機能がないため、消化率は下がる。ある記事を「どれか一つ」選んだ時点で、今度はサイトにアクセスできる記事全体から読む記事を選ぶことになる。つまり、一通のメールから、(一つの記事+アルファ)を読むことになる。

翻ってGunosyには、送られてくるときに、タイトルは素っ気なく5月3日のまとめが更新されました、とあるだけである。中味は開けてのお楽しみ。そして開けると、いくつかの記事が同じフォーマットで、ダイジェストされて並んでいる。順序、というナチュラルな重みづけはあるのだろうが、読者にはどれも同じに重みづけられているように感じる。(Webは一番上の記事が横一杯になっていて、明らかに目玉記事の様相を呈している)。また各記事に視覚的なアイコンもついている。

僕の場合、メールが届くとそれを合図にアプリをひらくことも少なからずある。いずれにしても、日経と決定的に違うのは、「行ったり来たり」ができること、またそれがGunosyの使い方の基本になっているところである。その時点で、消化率に差が出てくる。

日経が、読者に届けるメールから、ウェブサイトという母艦に移動するという感覚であるのに対し、Gunosyは読者に届くメール(またはアプリ)が母艦になっていて、いろいろなサイトに出かけていっては戻ってくることを繰り返すのである。日経のアプリが仮にGunosyのアプリと同様の概念になっていても、それは有料読者という選民のためのサービスであって、賤民である僕にはわからない。(つづく)

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広告効果の諸相 Perspective of Ad Effectiveness

前回のポストで、広告効果をどう測るか、は、広告効果をどう定義するかと不可分だと書いた。では広告効果とは何なのか?

実務的・経営的視点に立てば、Business Results(つまり売上や利益)に対する広告の寄与、あるいは広告投資に対するビジネス上の成果(ROI)といったものが望ましいものとなろう。

しかし、広告効果を直接的な売上や売上に直結する行動(すなわち購買)という枠に閉じ込めてしまうと、広告を行う目的が極めて短期的で直接的なもの、すなわち消費者に「いかに買わせるか」を追求するものになる。広告は買わせる手段にすぎない、という割り切った考え方は、消費者(広告の受け手)にそれが伝わると警戒心、忌避感や嫌悪をまねき、広告という手段の有効性を損ねる。前のポストで紹介したディスカッションの冒頭でも、司会者が会場に対して「どんな形式であれ広告大嫌いな人どのくらいいますか?」と手を上げさせていたのが印象的だった。

改めて広告効果とは何か、を自問してみると、ブランドに対して正(または負)の影響を及ぼす要因という答えがぼんやりと浮かんだ。結果として、コミュニケーション効果だったり、売上高だったりということになる。しかし、これでは幅広すぎる。古典的なS-R(刺激と反応)で考えたときの、Sだ、としか言っていないのと同じである。

広告効果とは何かについて、インターネット上で誰でも読めるものから探ってみると2つの日本語論文が見つかった。一つは2000年に書かれた「広告とは何か」(田中洋)、もう一つは2011年に書かれた「広告効果研究をふり返る」(岸志津江)である。二人の著者はともに広告業界ではよく知られた、現役の研究者である。

田中論文は、インターネット広告がまだ市場として立ち上がる前に書かれていたものだが、問題意識としては、広告はなぜ有効なのかということを解明しなければ、広告効果についての解決はあり得ないだろう、というもの。ここで田中は、ブランド論がまだ盛んでなかった1991年に上梓した「新広告心理」(電通刊)の中に提示した「消費者が広告に含まれる商品情報をどのようにしてみずからと関係づけて効果を発揮するか」、という視点を踏まえ広告効果は次の二つだと結論づける。

広告効果とは、(1)ブランドが消費者の中に形成され、購買行動生成の前提となる準備状態が醸成されること、(2)その準備状態が購買意思決定の過程で効果的に作動すること。というプロセスのことである。

これは、概念としてはわかりやすく正しいと思うが、これを測ろうとするとより下位の要因に分解することが必要になる。

岸論文は、2011年に至るまでの広告効果研究をハンディに総括し、課題を整理した優れて利便性の高い論文だと思う。広告効果については、文中に表2として、効果の段階と基準としてまとめられているので、ここに転載する。これは、広告の送り手から見た効果の指標となり得るものである。したがって、広告の目的に沿ってそれらを測定すればよいわけだが、一つ一つに、そしてその都度測定の問題点や課題が存在する。例えば、売上への広告の寄与度を解明するためにマーケティング・ミックス・モデルが米国ではよく利用されていることが論文中の表4を見ればわかるが、この方法は専門の会社に委ねるとかなりの費用と結果がでるまでの時間がかかる。

AdEffectivenessCriteria

これらの多様な指標にどう取り組むか、はマーケティング戦略と不可分である。

さらには、こうした指標を扱うこと、すなわち広告を扱うことには、広告の送り手の消費者観、人間観が問われるのである。田中論文からもう一つ引用しておこう。

私たちは広告効果を、あたかも消費者を「コントロール」するかのごとく扱ってはいけない。それは倫理的にそうであるだけではなく、消費者のアタマに広告の記憶を「埋め込み」、それが購買時点で機械的に思い出され、購入意図を刺激する…という広告を実施する側に有利なイメージを抱いては正確な広告効果の理解ができないからである。

広告オーディエンスを標的(ターゲット)として、どこまでも追いかけて存在をアピールすることは、消費者を露出頻度によって動かせる(つまりはコントロールできる)、という観点を露呈したものだ。

インターネットの普及とともに、オンラインの広告効果測定が当然のように行われていることは画期的であり、PDCAサイクルを回しながら効果を高め、費用対効果も部分的には実証できるようになったことは喜ばしい。しかしそれはあくまでもマーケティングプロセスのごく一部に過ぎない。長期的なブランド構築という広い視野に立つこと、さまざまな経路や手段を使い、表現に工夫を凝らして連携をはかることなどが必要になる。広告効果指標の幅広さは、そのままマーケティング・コミュニケーションの奥深さに通じている。

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